中村ひろきです。なっがいプロフィール書きました。
ザックリとした経歴はこちらです。
1986年1月名古屋市生まれ。
高卒後、地元名古屋の鍼灸学校へ入学。
21歳。鍼灸師の国家試験に合格。沖縄移住。
25歳。名古屋に戻って4ヶ月の世界一周。
27歳。全財産が1900円の無職に。
28歳。勤め人と自営業のダブルワークで奮闘。
29歳。1軒目の不動産を購入。
32歳。2軒目の不動産を購入。シェア別荘ロップ家オープン。
33歳。独立。北欧1ヶ月旅。
34歳。90日間カラダ再生プログラムを提供開始。
なんだかすごく波のある人生ですよね。。。
そんな生き方を見守ってくれた両親しつつ、これまでの人生をザザッと振り返ってみます。
副会長&野球部主将。才色兼備のクズ小学生。
わりと優秀だった小学校時代。
「学級委員」「副会長」「足速い」など、モテそうな条件をサラッとかき集めたリア充小学生でした。
また、入学時に買ってもらった学習机の世界地図マットが大好きで、早くも海外の魅力にとりつかれます。
このとき同級生に「スーファミやめて中国語勉強しようぜ!」と発言してドン引きされました。
スポーツでは野球部キャプテンを務め、1番ピッチャーの座をゲット。
絵に描いたような才色兼備でしたが、いかんせんメンタルが弱くて大変だったことも。
副会長とキャプテンを任されたプレッシャーで拒食症になったり、司会を任された全校イベントで家から出られなくなったり、このへんはなかなか苦労しました。
ちなみに、耳鼻科に通い始めたのは小2。すでに花粉や季節の変わり目はだれよりもニガテでした。
初めて親に逆らった中学時代
野球部が存在しなかった地元の中学校では、ハンドボール部へ。
またしてもキャプテンを務めましたが、クソ弱かったために不完全燃焼のまま引退。
このままハンドボール人生を終えるのが嫌で、愛知県の公立で一番ハンドが強かった高校へ進むために猛勉強をしました。
このとき親に「強い高校で控え選手になるより、弱い高校でレギュラーの方がいいんじゃない?」と言われました。
でも、ぼくは「強い高校でレギュラーになること」しか頭にありませんでした。
今思えば、ここで強豪校への進学を決めたことが、初めて親に逆らって自分の人生を進んだ瞬間だったかもしれません。
結果的に志望校に合格して、高校2年冬にレギュラー入りを果たすことができました。これには親も大喜びでした。
親友との出会いで価値観が激変した高校時代
念願叶って入部したハンドボール部は、3年連続で全国出場していた強豪校でした。
レギュラーで出場した2年生の新人選抜では、全国を懸けた試合で持ち前の豆腐メンタルを発揮。
何もできないまま前半を終えたところで「おれ抜けるわ」と自ら控えベンチに消えました。
小学校時代からのメンタルの弱さは、未だ健在だったんですよ。これすごくコンプレックスでした。
いつも試合が終わると「今日はお疲れさまね」とメールをくれた母親。
最後の夏の大会で負けたときに「3年間お疲れさまね」というメールが届き、中高6年間のハンドボール人生が完全に終わったことを一気に実感して、その場で泣き崩れました。
最後の大会は愛知県3位という結果に終わりました。
そして、高校3年の夏休みが迫ってきます。
ほとんどの同級生がセンター試験に向けて猛勉強を始めていました。
進路予定は鍼灸専門学校だったぼくは、それほど必死こいて勉強する必要がなかったんですね。
ここで、土日もすべて部活に費やしていたぼくの「旅したい欲」が爆発します。
とにかくオモロイことがしたかった。
そこで、ぼくは教室内を見渡して、受験とは無縁そうな松本くんに声をかけました。
松本くんは、金髪の留年生で、異端児でありながらモテまくる、すごくズルい人でした。
彼に「夏休みにチャリで名古屋から沖縄行かない?」と声をかけたとき、コンビニへ行くみたいなノリで「うんいいよ。」と答えてくれたことは、今でも忘れられません。
名古屋から沖縄を目指した1ヶ月間のチャリ旅は、従来の常識がガラガラと崩れることの連続でした。
安宿で知り合う人達は、いわゆる大学進学や就職などのレールに乗らず、心から旅を愛している人ばかり。
先生や大人達の言うことに従順でいることがマジメじゃないんだ!
自分の心に潜む純粋な好奇心に素直でいることこそマジメなんだ!
この旅がなかったら今のぼくはいなかっただろうなと思えるほど、価値観が激変した1ヶ月でした。
大切なことの9割を学んだ指圧の武者修行
1日8時間指圧耐久レースの日々
高卒後は、鍼灸マッサージ師になるべく専門学校へ。
心のどこかで「旅しながらできる仕事に就きたい」と思っていたので、一般的なサラリーマンになるビジョンはありませんでした。
入学直後、4代続く老舗の指圧治療院の先生に声をかけていただき、時給換算300円の修行時代に突入しました。
最初の1年間で指紋は消え、水道はひねれず、親指の感覚を失いました。
お盆と正月以外はひたすら指圧に明け暮れる日々。知人の結婚式や葬式に出席することも許されませんでした。
クソでかい揚げ餃子(上の写真)をひとり50個ずつ食わされたり、ヤクザの患者さんにカカト落としを喰らったり、とにかく心身ともにムチャクチャ鍛えられました。
この荒療治のおかげで学生時代の豆腐メンタルはすっかり消えました。
しかし一方で、とある葛藤が生まれました。
この治療院で修行すれば、一流の治療家になれることは間違いない。
でも、ここにいたら、いつまで経っても旅に出られないかもしれない。
「この修行生活を続けた先には何が待っているだろうか?」
「この修行生活はぼくを旅へ連れてってくれるだろうか?」
そんなことを考え始めたら修行に集中できなくなり、いつしかぼくは治療院をやめるタイミングを考えるようになりました。
頭の中は「沖縄」の2文字のみ
これまでの兄弟子は、ここで13〜15年修行してから独立開業という流れが暗黙ルールだったこの指圧治療院。
途中で他の治療院に浮気することも、ここで習得した技を外で試すことも、決して許されませんでした。
でも、ぼくはやっぱり旅がしたい。沖縄に行きたい。
高校3年の夏に松本くんとチャリで旅をしてから、沖縄に移住したい一心で鍼灸師を目指してきたのです。
その思いが最高潮になったとき、院長先生に沖縄へ渡りたい気持ちを告白しました。
歴史をぶち破って申し訳なかったですが、先生にボロクソ言われて泣かされるなどの攻防の末、この治療院を異例の3年間で退職。
専門学校を卒業後、国家試験に合格すると同時に、バイクで日本一周へ旅立ちました。ゴールは沖縄。21歳です。
このとき、ぼくは「頑固」と「信念」の違いを知りました。
方法や手段を曲げない人は頑固な人。
夢や目的を曲げない人は信念のある人。
沖縄移住が夢だったぼくは、自分が「信念のある人」だと信じて、周りから「沖縄に逃げた」「ツライから辞めた」と後ろ指をさされても、気にせずに我が道を行くことができたのです。
夢だった沖縄移住をかなえた21歳
カオスな安宿に10ヶ月住んでみた
目的地の那覇に着いたとき、全財産は10万くらい。
10ヶ月ほど滞在していた1泊1,000円の安宿は、6畳のワンルームに3段ベッド2台というカオスな環境でした。
収入は少なかったけど、500円あれば定食が食べられて、いつでもキレイな海がすぐそこにある沖縄。
まるで竜宮城に来たような感覚に酔っていました。
那覇に「日本一ゆるい治療院」が誕生する
ストレスも多かった安宿を飛び出したぼくは、当時付き合っていた彼女と同棲をスタート。
休日にフラッと離島に行ったり、夕暮れのビーチでたそがれたり、沖縄ライフを超満喫していました。
でも、お互い自分の生活に精一杯ですれ違いが多く、たびたびお金のことですれ違ったんですよね。
「結局カネ大事かよ・・・」
と痛感したのはこの時期です。
沖縄ではいくつかの鍼灸院や治療院を転々としました。そして、彼女と別れて同棲を解消。
物件情報サイトでたまたま見つけた赤瓦の古民家に住まいを移し、自宅兼治療院を開きました。
人生初のフリーランス。23歳のときです。
「さぁ、一世一代の大勝負だぞ!」
なーんて、気合が入ったわけではありませんでした。
上の看板を見てわかる通り、完全週休二日制で、営業時間は14時から。
午前中はビーチで泳ぎ、夜は予約がなければ北谷の宮城海岸までバイクを走らせて夕陽を観に行きました。
こんなフザケた治療院だったのに、今でも当時の患者さん達が仲良くしてくださることは、本当にありがたいことです。
▲「おもろそうだから」という理由で即決してしまった家賃5万円の赤瓦の物件。車も通れない超がつく路地裏にあり、飛び込みでくる患者さんなんて誰もいなかった。広告費もかけられなかったので、毎日ブログで発信し続けた。
▲四畳半の治療室。改装費はゼロ円。とにかくベッド1台置いただけの超シンプルな治療院だった。
▲和室のタタミで寝っ転がると、窓の外はこの景色。ずっと憧れていた沖縄のイメージそのままの景色がそこにありました。
沖縄本島一周ヒッチハイクを最後に名古屋へ戻る
▲人生初ナンパを試みて、声をかけた女の子に写真を撮ってもらう。しかし、その子の母親らしき人物が鬼の形相でこちらをにらみつけていることに気づき、そっと目線を下に落としてる図。
ゆるゆるな治療院を開業して約半年。
生活できないわけじゃないけど、学びや成長が少ない暮らしに危機感を覚えました。
「このまま薄っぺらい治療家になったらどうしよう?」
これは、名古屋の指圧治療院で鍛えられまくった経験があったからかもしれません。
「また誰かにキツく叱ってもらえる環境じゃなければ、自分は成長できないんじゃないか?」
という想いが日に日に強くなったのです。
このころ松本くんは、バイクで事故ったり、飲酒運転で免許を剥奪されたり、波乱万丈ライフを送っている様子でした。
同級生たちは一流企業に就職してガンガン稼いでいるようでしたが、二人はそれほど不安に思うこともなく。
同級生たちを見下すわけでもなく、嫉妬するわけでもなく、ただただ「二人の今」を謳歌していました。
お盆などの長期休暇に名古屋へ帰ったときも、大半の時間を松本くんと過ごしてたなぁ。
日雇いバイト面接へ飲酒状態で受けに行ったり、車の屋根にしがみついて死と隣り合わせのドライブをしたり、頭の悪い遊びをしてだらしなく笑ってた思い出。
そして、こんなだらしない遊びが転機を生みます。
「ダーツの旅世界地図バージョンやろうぜ!」
23歳のまあまあいい年の二人が、デカい声ですごいベタな企画を思いついたのです。
そしてダーツの矢の刺さった先が・・・
フィンランド。
サンタとサウナとキシリトールの国。
ダーツの刺さった正確な場所はタイバルコスキという見知らぬ都市でした。
(まぁ、日本でいうところの「宇都宮」くらいのノリんとこだと思う)
・・・というわけで、フィンランドに行くことになっちゃったんです。
それから二人で調べているうち、フィンランドを往復するなら世界一周したほうがコスパいいという結論に。
ゆるすぎる沖縄生活に危機感があったこともあり、ここで沖縄生活に終止符を打つことにしました。
「名古屋で集中して1年間でお金を貯めて、世界一周するぞぉおおおお!!!!」
とテンションが上がって、24歳の時に名古屋へ帰還したのです。
このとき、たくさんの友達に「よくそんな鮮やかに方向転換できるよね。」というようなことを言われました。
確かに、今の生活に区切りをつけられず、なかなか次に進めないことってありますよね。
でも、今の生活以上のワクワクを見つけると、いてもたってもいられなくなっちゃうんですよね・・・。
で、大好きな沖縄を離れる記念に、沖縄本島をヒッチハイクで一周しました。
2泊3日かけて計32台の車にお世話になったの楽しかったなぁ。
世界一周のために戻った名古屋の壮絶な1年
決死のカミングアウト
名古屋に帰還してからは、1年後の世界一周に向けて、お金のためだけに働くことに決めていました。
そのため、なるべく給料の高い、介護系の社団法人が経営する治療院に就職しました。
世界一周のことはモチロン内緒。
なかなかいい職場だったのですが、半年ほど経った頃、タイミングを見計らって社団法人のオーナーに白状しました。
「入社動機は世界一周資金を貯めるためでした。1年で辞めます。ごめんなさい。」
すると予想外の答えが返ってきました。
「そうか。じゃあ、治療院だけ切り離して会社を作って社長をやれ。オマエがいなくても回るシステムを作って、世界一周行ってこい。」
おれが社長・・・?
(なにそれカッケェじゃん・・・)
「押忍!!!!!」
こうして、ぼくは桃太郎電鉄のごとく一瞬で社長に昇格しました。
ぼくが嬉しかったのは「日本に帰国した後も職場が用意されている」ということではありませんでした。
「社長という身分で世界一周ができる」という、いかにもモテそうな肩書きに酔ってしまったのです。
代表取締役の肩書きに酔いしれる
ここから華なかな社長ライフが始まるかと思いきや、「自分がいなくても会社が回るシステム」を数ヶ月で作ることは想像を絶するツラさでした。
決められた仕事をこなすだけの従業員がどれほどラクか、このとき身に染みて感じました。
早朝から晩までみっちり働いて、夜は週4ペースでオーナーに連れられて高級クラブで朝5時まで飲み歩く生活。
肌は荒れ、意識はもうろうとし、体重は人生マックスの67キロ。
学生時代の指圧治療院での修行がクソみたいに感じました。
「このオーナー、世界一周行く前におれを殺そうとしてね?」
と本気で思いました。
ストレスで金遣いが荒くなったぼくは、世界一周の資金を貯めるという大目的を失いかけました。
車も、家賃も、ケータイ代もすべて会社名義だったのに、1年間で貯まった資金はたったの100万だったのですから。
松本くんBMWを衝動買いするの巻
そろそろ航空券を予約しようか、という時期にさしかかったころ。
松本くんからBMWを購入してお金が尽きたと連絡がありました。
ぼくも松本くんも我慢をしないで生きることが信条ですから仕方がありません。
結局ひとりで世界一周をすることになった出発直前、松本くんがBMWに乗って颯爽と自宅に現れ、小野まゆみの写真集をプレゼントしてくれたことは一生の思い出です。
「日本人女性の素晴らしさを海外に広めてきてね!」
と言い残して、彼はまたBMWで去って行きました。
結果的にぼくはひとりで世界一周に出発しましたが、親と銀行から借金した松本くんとフィンランドで合流し、10日間ほど2人で周ったんですよね。
「25歳、社長、世界一周。」
社員とスカイプで会議する俺カッケー !
社長という肩書きを背負って海外に飛び出したとき。
ぼくは初めて「世界中のどこにいても仕事が成立している感覚」を体験しました。
「場所にしばられないってスゲエ!!」
とひたすら感激しました。
一方で、時々届くオーナーからのメールにビクビクしたり、社員とスカイプで会議をするために日程調整したり、ストレスに感じることもありました。
「時間と場所にはしばられたくないけど、雇ったり雇われたりすることは不向きだなぁ。」という自分の性質に気づけたのは大きな収穫でした。
南アフリカのヨハネスブルグで死にかける
世界最恐の凶悪都市と名高いヨハネスブルグで日本人宿に滞在してたとき。
ルームメイトと外出している途中、黒人グループとトラブルになりました。
ブチ切れした黒人が銃をチラつかせてきた時、ぼくは死を覚悟しました。
そのときぼくはどうしていたか。
興奮するわけでもなく、足が震えるわけでもなく、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていました。
まるで、目の前で上映されている映画を眺めているように。
あの時そのまま銃で撃たれていたら、どんなにあっけない一生だったでしょうか。
でも、そんな一生でもいいかと思えるくらい、そのときは冷静だったんですよね。
ずっと夢だった世界一周の旅が実現したから死んでもいいほど幸せだった。
そう、ぼくが20代で一番幸せだったことって、死んでもいいと思えたことなんですよ。
1ミリも直らなかった人見知り
旅の途中、だんだん日本人宿に居るのが辛くなってきて、一人でいられる外国人宿で泊まるようになりました。
日本人宿で必ず行われる旅人同士の密な交流が、人見知りのぼくにはなかなかツラかったのです。
「世界一周で治らない人見知りなんて不治の病としか思えない」
と開き直った瞬間、いかに無理に治そうとしていたことがストレスになっていたか分かりました。
この旅は、ぼくが生涯にわたって人見知りを治さないことに決めた大きな節目になりました。
人見知りを無理に治す方法を考えるより、それを「個性」に変える工夫を考えている時間の方が、ずっとワクワクすることを発見したのです。
帰国直後に失職して暗黒時代を迎える
社長をクビになる
帰国後は、オーナーに恩返しすべく仕事に全力を注ぐはずでした。
でも、思うように体が動きませんでした。そう、重度の燃え尽き症候群です。
仕事で大きなミスを連発するだけでなく、オーナーを助手席に乗せた車を運転している時、信号待ちで寝てしまう始末。
いくら集中しようとしても、もう何も手につきませんでした。
結局、オーナーのやり方と合わなかったこともあり、社員と一緒に会社から逃げるように退散しました。
世界一周に行かせてもらった恩は返さなければいけませんでしたが、オーナーの犬でしかない環境は長続きしませんでした。
「28歳、全財産、1900円。」
お金も肩書きも一瞬で失ったぼくは、最後の給料だった37万円を握りしめて、無職のまま引っ越すことにしました。
会社から寝るためだけに帰っていた家を見るのがイヤになり、とにかく環境を変えたかったのです。
都会好きのぼくは、名古屋駅徒歩圏に住むことに決め、最初に見学した家賃7万円のワンルームで即決。
まず、この段階で「フツー次の職場決まってから引っ越すだろ!?」と父親に激怒されました。
そんなことはお構いなしでしたが、ミニミニの美人な店員さんに契約金の見積もりを手渡されたとき、早くも後悔することに。
全財産の37万円に対して、契約時費用の合計は39万円だったのです。
当時ぼくは亡き祖父母の家で一人暮らししていたので、古いタンスや引き出しをひっかきまわせば2万くらい出てくると思い、必死に現金を捜索しました。
すると、古い引き出しの奥の方からくしゃくしゃになった茶封筒を発見しました。
すかさず振ると、チャリチャリ音がするではありませんか。
我を忘れて茶封筒をひっくり返すと
亡き祖父の理解不能なコレクションが明らかになりました。
結局、母親にこっそり2万円借りることに成功。
身の丈に合わない都会暮らしがスタートしました。
治療技術を学ぶために接骨院で働き始めましたが、なんとなく予想していた通り収支バランスが絶望的に悪く、あっさりと家賃を3か月滞納。
住民税や国民健康保険も払えるはずがなく、50万近く支払いが滞りました。
親友の松本君の結婚式が終わったとき、全財産はたったの1900円。
親友のご祝儀に1万円しか出せなかった時は、さすがに情けない気持ちでいっぱいでした。
そんなときでも自己啓発本を買ったり、友達にご飯をおごったりすることはやめませんでした。
メチャメチャ見栄っ張りなので、周りに「お金ねぇわ」なんて恥ずかしくて死んでも言えませんでした。28歳のときです。
1日17時間労働を2ヶ月続けた結果
そのころ感銘を受けた「大富豪アニキの教え」という本の影響で、どこまで長時間労働に耐えられるか試してみました。
・8〜16時までパチンコ
・17〜21時まで接骨院
・22〜27時までホテルの客室マッサージ
しかし、やったことすらないパチンコのバイトが辛すぎて、ある朝、店をスルーしてそのまま名古屋から京都へ逃亡しました。
それと同時に、ホテルの客室マッサージは過労で就労不能と判断されてクビになりました。
2つの仕事を数ヶ月で失いましたが、接骨院の給料だけでは生活できないため、再び職を探すことに。
このとき職を探すのは大変でしたが、17時間労働から解放された喜びは計り知れませんでした。
ここで17時間働くとぶっ倒れる法則を発見したおかげで、これ以降ブレーキとアクセルの調節ができるようになったのです。
「止まない雨はない」はマジだった
捨てる神あれば拾う神あり
「せっかく持ってる国家資格活かしたら?」という友達の指摘を受け、ハローワークで見つけた会社で働くことに。
老人ホームへ訪問治療する会社ですが、このとき拾ってくれた社長には、家賃滞納の件などをすべて話せたんですね。
そして、給料を前借りさせてもらったり、社用車をプライベートで使わせてもらえたおかげで、久しぶりにフツーの人間の暮らしができるようになったのです。
20時に仕事が終わることが死ぬほど嬉しくて、50万もの支払いを滞納していることを忘れそうになるほど。
この社長には今もお世話になっていて、自営業や不動産投資をしながら正社員として働かせてくれるのでありがたい限りです。
(追記:2018年12月で退職予定)
会社で働き始めて生活が安定した頃、自分の治療院を立ち上げ、ダブルで働きました。
ダブルといっても、せいぜい9時から21時程度のこと。
17時間の重労働を経験したぼくにとっては楽勝でした。
そして、29歳になる頃には、自営業の収入が会社の給料を上回っていました。
ありあまるお金の行き先
50万ほどあった滞納をすべて払い終えたとき、経験したことのない爽快感に包まれました。
さすがにもうお金を失いたくなったので、ずっとやりたかった不動産投資の勉強をしながら、ブログをはじめました。
文章を書くことは好きだったし、いつか自分のメディアを持たなきゃなと思ってたのです。
つまり、お金を消費するのではなく、徹底的に投資する方向に踏み切ったというわけ。
ぼくも大人になりましたね・・・(笑)
そして、1軒目の不動産の購入に成功。
280万のボロ家ですが、家賃55,000円で賃貸することができました。
この家賃収入を元手に、ふたたび治療の勉強に専念することができるようになりました。
ずっと治したかった鼻炎体質の克服にコミット
ひとまず生活が安定するようになって、真っ先に改善したかったのは「鼻炎体質」です。
- 花粉
- ホコリ
- 寒冷刺激
- 動物の毛
- ストレス
こういったモノで1年の大半を苦しめられている鼻炎体質を、ここで根絶したいと思うようになりました。
なにしろ、沖縄に移住したのも「寒くないし花粉なさそうだから」という理由だったんですね。
でも結局、沖縄の室内はクーラーがガンガンに効いており、鼻炎は1ミリも治らなかったのです。
書籍を買い集めて必死に勉強したのは断食。
そして友達とFacebookグループをつくって実践した7日間断食で、鼻炎症状がほぼ消失。
ここで食事の大切さを痛感して、普段の食事で口にするものに最大限の注意を払い、鼻炎体質を克服しました。
寒いところや季節の変わり目が大嫌いだったのに、これを機に別人になったかのように雪国に憧れるようになります。
松本にシェア別荘ロップ家をオープン
ほどなくして2軒目の物件を買いました。松本城の近くにある築30年の一軒家です。
ここもフツーに賃貸しようと思ったのですが、あまりにも風光明媚なため、しばらく遊び道具にすることに。
鼻炎体質を克服して寒いところが好きになったのもあって、貸したらもったいないと感じてしまったのです。
(「1年間5万円で使えるシェア別荘ロップ家」として、二拠点生活したいメンバーを募集中です。)
松本くんと旅をしたフィンランドの幸福感を再現したくて、マリメッコやイッタラの食器をそろえてます。
ゴリゴリ仕事をするのも好きなんですが、ここにきて北欧特有の幸福観を感じるようになりました。
道端に咲いた花とか、大切な仲間の成功とか、身近なしあわせに気づく場所になったらいいなと。
フィンランドで念願の湖ダイブ
25歳のとき、世界一周で寄ったフィンランドでは、まだアレルギー症状が治っておらず、滞在中はずっと鼻炎に悩まされていました。
アレルギー体質を完全に克服して寒いところが大好きになった今、再びフィンランドを満喫したくなったのです。
フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマークを1ヶ月かけて周り、何気ない日常の一幕にしあわせを感じる北欧の人たちの生活に触れることができました。
この旅で強く感じたのは「ニガテな季節や天候がないことが、どれほど素晴らしいことか」ということ。
冬が大嫌いでも、死ぬまで一生冬って毎年来るんですよね。
それならば、少しでも早く体質改善して症状を克服し、毎年どの季節も100%楽しめたほうが人生充実するに決まっているのです。
この旅によって、アレルギー体質克服によって人生が180度変わったことを、一人でも多くの人に伝えたいと思う気持ちが強くなります。
今の生き甲斐はクライアントさんの人生を勝たせること
こうして提供開始したサービスが、体質改善プログラムMUI。
誰からもサポートしてもらわずに、たった一人で食事制限したり生活習慣を改めることは至難の技です。
ヒトはそもそも続かない生き物なので、プロと二人三脚になって短期集中してしまったほうが、ずっと効率的なんですね。
プログラムに参加されているクライアントさんは、アトピー体質やひどい便秘などに長年悩まされている方ばかり。
そういった方に寄り添って体質改善の最短コースを目指し、一人でも多くの方に悩ましい症状がないことの素晴らしさを知ってもらい、今まで諦めていたことにどんどんチャレンジしてもらうことが、今のぼくの生き甲斐です。
ぼくはこれからも、持病によって時間や場所を奪われることがない状態をキープして、大好きな北欧やキャンプやに拠点生活を謳歌していきます。
もし過去のぼくのように、持病があるせいで人生を謳歌しきれていない人がいるのなら、明日と言わず今日から新たな一歩を踏み出してくださいね。
人生で細胞が一番若いのは、今これを読んでいる、今このときなのですから。
死ぬほど長いプロフィール、最後の最後まで読んでくださりありがとうございました!